<日本万国博覧会> 私のおもちゃ箱-EXPO'70
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最初の万国博開催提案

 1862年(文久2年)に第1回遣欧使節(文久使節)竹内下野守の一行がロンドンで初めて博覧会を見る。1867年(慶応3年)第2回パリ万国博に徳川幕府と薩摩藩が初じめて参加、1873年(明治6年)ウィーン万国博に明治政府が参加する。1910年(明治43年)には日英大博覧会を開催する。このころから日本国内で万国博を開催する運動が始まる。
 最初の万国博開催提案は1877年(明治10年)に農商務大臣西郷従道によって行われた。つづいて1907年(明治40年)ごろアメリカの専門家を招いて、5年後に万国博を開催するという計画を検討させる。しかし、開催までに10年が必要という答申が出たという記録もある。

皇紀2600年記念博覧会

 1928年(昭和3年)にパリで35カ国の会議によって国際博覧会条約が締結され、日本もこれに加盟する。1930年ごろには皇紀2600年記念大事業として、1940年(昭和15年)に東京で日本万国博覧会(皇紀2600年記念博覧会)の開催を決定する。テーマは「東西文化の融合」である。約50カ国が展示館の建設を予定し、会場の設計もでき入場券の前売りも行われた。前売り券はクジ付きで1等2000円(当時のサラリーマンの給料80〜100円)。このときの入場券は、回数券1冊でEXPO'70の入場券1枚と交換できる。
 中国大陸での戦争、世界情勢の悪化により、1938年(昭和13年)に開催は中止となる。
※皇紀とは日本書紀に記された神武天皇即位の年を元年として定めた紀元であり、皇紀元年は西暦紀元前660年にあたる。

日本万国博覧会(EXPO'70)

 日本は先の戦争(第二次世界大戦)によって加盟国ではなくなっていたが、1963(昭和38)年に博覧会国際事務局から改めて加盟の申し入れがあり、1964(昭和39)年の東京オリンピック大会の成功などが推進力となり、日本で万国博の開催をと言う声が高まる。
 日本万国博覧会(EXPO'70)の誘致は、1963年1月4日大阪商工会議所の新年祝賀会において、大阪商工会議所の前会頭杉道助氏(当時)が提案し、大阪府知事左藤義詮氏(当時)とともに運動を始めてから本格化した。1963年9月には博覧会国際事務局から国際博覧会条約批准の申し入れがあった。
 1964年4月23日には大阪府が日本政府に万国博開催の要望書を提出する。1964年11月4日に政府が閣議で日本万国博開催誘致を正式に決定し、1964年12月18日、万国博条約の批准案が国会を通過する。1965(昭和40)年1月8日、条約批准書をフランス政府に寄託し、32番目の締約国となる(1965.2.8より正式加盟国になる)。1965年4月3日には、政府が会場を大阪・千里丘陵に決定し、政府からパリの博覧会国際事務局に開催の申請書を提出する。1965年9月14日には、日本での開催が決まり、1966(昭和41)年5月11日に博覧会国際事務局の理事会が日本の提出した一般規則、一般分類表を承認し、正式に第1種博として開催することが登録される。一般規則とは、会期、参加国などの義務、外国政府の参加招請方法など博覧会の性格や運営方法などを定めたもので、日本万国博の一般規則は、9章50条からなっている。一般分類は、博覧会に展示できる品物の種類を細かく分類した表で、56部門320項目に分けられている。
 日本万国博覧会(EXPO'70)は戦後3番目の第1種一般博覧会となる。戦後1番目は1958年のブリュッセル万国博、2番目は1967年のモントリオール万国博である。

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参考文献:日本万国博覧会公式ガイド、朝日年鑑1971年版(朝日新聞社)、
5000万人のための万国博オールガイド(実業之日本社)、
EXPO'70ミニガイド(大阪PR協会)、
人類の進歩と調和 大阪開催のあゆみ(大阪府編集・発行)

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