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普通郵便切手
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 年 表
 色 違 い 

 普通郵便切手(年表)  

さくら日本切手カタログ、日本切手専門カタログ1995(いずれも日本郵趣協会)より
1871年4月20日
(旧暦明治4年3月1日)
 わが国最初の郵便切手が、竜を図案して発行された。(最初の記念・特殊切手は、1894年(明治27年)3月9日に発行された)
 最初の切手は、切手の印面を1枚1枚、手で彫る銅版エッチング法による凹版で印刷さたので手彫切手と名付けられている。
1872年(明治5年)8月  印面の四隅に桜を配した桜切手(8/23〜)が発行される。
1875年(明治8年)1月  外国郵便料金用として、雁(カリ)・鶺鴒(セキレイ)・鷹(タカ)を図案にした鳥切手(1/1)が発行された。これはアメリカ合衆国と結んだ郵便条約の実施に伴うものである。
1876年(明治9年)5月17日  紙幣寮に招かれていたイタリア人のエドワルド・キヨソネの指導のもとに、凸版印刷による切手を製造するようになった。これらの切手には、"IMPERIAL JAPANESE POST"と欧文で国名を入れ、中央部を小判型の輪郭にしてあるので、小判切手(5/17〜)と呼ばれている。
 従来の手彫切手では、急増する郵便料に対して印刷能力が悪いので、近代的な印刷方式による大量生産に切り替える必要があった。また、前年より外国郵便の取り扱いが開始され、従来の図案では国際的に不備なところもあった。
1899年(明治32年)1月1日  天皇家の紋章であり、天皇制のシンボルでもある菊花紋章を図案にしたものがに発行された。これらは菊切手(1/1〜)と呼ばれている。
 1889年(明治22年)天皇の権力を絶対化した大日本帝国憲法が公布された。これに基づき国家権力の強大な政治体制が確立されることになった。また、日清戦争(1894-95)の勝利によって、侵略的なナショナリズムが台頭し始めた。こうした政治・社会情勢に合致するように切手の図案も改められた。
1913年(大正2年)8月31日  初めて切手図案が懸賞募集され、その1等に当選した田沢昌言(たざわ まさこと、印刷局職員)の作品が採用された。額面中心の実用本位の図案で田沢切手(8/31〜)と呼ばれている。
 明治天皇が死去して大正と改元され、切手の図案も改められることになった。
1922年(大正11年)1月1日  樋畑雪湖の描いた日本を代表する富士山に、鹿を組み合わせたもので、後者は中国の古典、詩経に出てくる鹿鳴(ゆうゆうろくめい)を絵にしたもので、賓客をもてなす意味が込められている。図案から富士鹿切手(1/1〜)と呼ばれている。
 前年のマドリードで開催された第7回郵便大会議の決定に基づき、外国郵便料金が、50gまでの印刷物は4銭、はがきは8銭、20gまでの書状は20銭に値上げされた。この結果、UPU(万国郵便連合)の規定によって4銭、8銭、20銭切手をそれぞれ緑、赤、青の系統の色に改色しなければならくなった。しかし、田沢切手でこの色が使用されていたので別図案の切手が必要となった。同じ額面の田沢切手は廃止された。
1923年(大正12年)10月25日  関東地方南部を襲った大地震(関東大震災(1923.9.1)、マグニチュード7.9)と、これによる大火災とによって、特に東京・横浜地方を中心として、家屋の被害約70万戸、人的被害約25万人という大きな被害をもたらした。
 このため、東京にあった印刷局や逓信省の切手倉庫なども焼失し、切手製造に必要なほとんどの設備・資材と完成品の切手がすべて焼失してしまった。このままでは全国的に切手が欠乏するのは時間の問題であるので、応急措置として民間会社で暫定的な切手を製造させることが計画され、発行された切手を震災切手(10/25)と呼ぶ。
 切手の製造は最初、大阪で行われ、その後、東京で復興した民間会社に移された。
1924年(大正13年)3月下旬頃  再び田沢切手と富士鹿切手が供給されるようになった。
1924年(大正13年)3月  震災切手の製造を終える。
1924年(大正13年)9月  震災切手の売りさばき打ち切る。
1925年(大正14年)4月30日  震災切手が廃止された。
1926年(大正15年)7月5日  1925.10.1に外国郵便料金が印刷物は2銭、はがきは6銭、書状は10銭に値下げされた。その結果UPU条約色により富士山の2銭、日光東照宮の6銭、名古屋城の10銭が発行され、これらを風景切手(7/5〜)と呼ぶ。
1937年(昭和12年)5月10日  1913年(大正2年)に田沢切手が発行されてから20余年がたち、近代的で写実的な図案の切手を望む声が高まってきた。これらの要望に逓信省が図案改定の検討に着手し、郵便料金値上げを機会に、5月10日発行の2銭切手をはじめとして、次々と発行された。以後1946年(昭和21年)4月15日発行分までの切手を昭和切手(5/10〜)と呼ぶ。
 従来の図案の枠を打ち破り、写実的な構図を持ち、世界に冠たる神国・日本を示すことが主眼に置かれた。軍人、神社、植民地の風物等が題材とされた。また当時の印刷技術の急速な発展を反映させて製造された。
1946年(昭和21年)8月1日  1945.4.14に米軍の空襲で東京・滝野川の印刷局切手工場は全焼し、切手の製造はほとんどストップした。そこで民間会社に切手製造を委託するため、製造工程を簡単な平版印刷に改め、続けられた。敗戦までに発行されたのはごく一部で、ほとんどは敗戦後に発行された。第2次世界大戦は連合国側の勝利により日本は占領管理され、すべての体制が民主主義と平和の方向へ進められていった。軍隊は解体され、帝国憲法は日本国憲法にかえられた。
 郵便切手の図案も遅ればせながら新しいものに変えられていった。これらを新昭和切手(8/1〜)と呼ぶ。しばらくの間は、以前の図案のものが混用されていたが、これらもアメリカ軍の命令で1947年(昭和22年)8月31日限りで使用禁止となった。
1946年(昭和21年)  空襲で焼けた印刷局の設備も復旧してきたので、国名の表示を日本郵便と改め、新しい図案の普通切手がから発行されるようになった。
 最初は糊なし、目打ちなしの不便なものであったが、1946年(昭和21年)10月頃から目打ち付きの切手が発行され、1947年(昭和22年)はじめには糊付き、または目打ち付き切手が出回り、一部の切手は目打ち、糊付きの昔ながらの姿にまで回復してきた。
1948年(昭和23年)  図案から菊の紋章が無くなった。
1948年(昭和23年)10月16日  平和で日本の復興のために働く人たちの姿を各種の産業の中から選んで図案にした新しい普通切手が発行された。これらを産業図案切手(10/16〜)と呼ぶ。
 普通切手を同一の系列に統一しようとする計画のもとに進められたが、図案にまとまりがなく、結局は失敗に終わった。額面の表示はすべてアラビア数字だけに統一され、今まで併記されていた漢数字は姿を消した。
1950年(昭和25年)  国宝や特産動植物を描いた普通切手の発行が始まった。これらは一斉に発行されたものではなく郵便料金の改定や切手印刷技術の進歩に応じて次第に種類が増えていった。これらを動植物国宝図案切手(11/1〜)と呼ぶ。
 額面の単位は当初は銭位(ゼロ付き)であったが1952年(昭和27年)からは円位(ゼロなし)に改められた。
1966年(昭和41年)  UPU(万国郵便連合)の加盟国は、ローマ字による国名を印面に表示することになり(英国は除く)、日本では"NIPPON"と表示することになった(1965年9月10日閣議承認)。
 同年7月1日の郵便料金改定に当たって必要になった新切手からローマ字が入れられた。これらを新動植物国宝図案切手(6/20〜)と呼ぶ。
1967年(昭和42年)  郵便局の自動取りそろえ押印機の切手検知方式は、郵便物に貼られた切手の印面上の特定色・特定間隔の平行棒を検知する色検知方式が選ばれた。これにより普通切手には、平行棒が印面の上下(縦型郵便物用)・左右(横型郵便物用)それぞれに印刷されることになった。平行棒を2組入れた結果が色検知枠となっている。
1972年(昭和47年)  郵便料金改定に対応して新図案切手が発行されている。
1976年(昭和51年)         〃
1981年(昭和56年)         〃
1989年(平成1年)         〃
1992年(平成4年)  これまでの普通切手の図案不統一を解消する意図で、題材を日本の自然で統一した新シリーズの発行が始まった。1994年(平成6年)1月24日の郵便料金引き上げにあたっての必要額面切手からは、色検知とあわせて発行検知の郵便機械でも使えるように製造されるようになった。
 額面の違いにより昆虫、鳥、花に区分されており、これらを平成切手(11/30〜)と呼ぶ。


Copyright © 2002 Hiroshi Masuda

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